途中の東北道は地盤が動いた結果たいへんなうねりで
車が大きくバウンドする地点が何カ所もあった。
朝4時に志波姫PAで2時間仮眠をとり、8時頃に気仙沼市に入り、友達の家に着いた。
高台から自宅まで電話で誘導してくれた友達の無事な姿を見ると、もうそれだけで目頭が熱くなって、なにかしゃべると声が詰まりそうになる。
野菜や卵、頼まれた物を届けて休憩させてもらう。
生まれたばかりと思っていた息子はもう7ヶ月になっていた。
おしゃまでかわいい上の女の子はとても愛想良く「どうぞ」と様々なものをサービスしてくれる。
案内役を買って出てくれた友達に窮屈な後部シートに乗り込んでもらい、松岩方面に向かう。
瓦礫に覆い尽くされて、自動車が走れる道路はまだ少ない上、罹災証明や失業保健、その他いろいろな手続きを取るため役場に向かう人と車が集中するため道路は大変な混雑。
街の惨状に言葉を失う。
この状況を自分が持ってきた小さなカメラに収めてよいのか?
自分が撮るとしたら状況がよりよくわかるよう、角度や背景を工夫してしまう。
そこに演出が介在してしまうことに抵抗があった。
写真を撮る意味を考える。
自分で見るため、取って置くため、現地に来れなかったけど協力してくれた友達に見せるため、災害の怖さを人に伝えるため、いろんな大義名分はあるけど、結局撮りたいから撮るのではないか?
自分は普段、映像を制作する仕事、演出をしている。
企画を考えて、ストーリーを作って
たくさんの映像を撮影して、
それを見栄え良く組み合わせて、気の利いた音楽を組み合わせると
これがひとつの作品、いや商品になる。
そもそも金で買われた映像だから作る人に都合の悪いことは含まれていないし、口当たりのいいことだけをまとめてある。
効果的に見えるアングルを工夫し、ナレーションを考え、時にセンセーショナルに情感に訴える。
被災地という現場を前にして、自分がそれらを撮っていいのか?
もしもカメラを持っていけば
「いいのが撮れた」「このカットは迫力がある」などと考えてしまうに決まっている。
津波で崩された友達の家をそんな視点から見ていいのか。
絶えず自分に問いかけることになった。
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