僕が初めて気仙沼に行ったのは今から20年近く前。
気仙沼の病院で働いていた友達が、僕に気仙沼の友達を紹介してくれた。
紹介、と簡単に言っても彼らはなかなか恥ずかしがりやというか、
みんなで人見知りするようなところもあって、
特に年に1度くらいしか行かない上に、酒があまり飲めない僕は、
気仙沼のみんなと仲良くなるのには少々時間がかかったんだ。
でも、時間がかかった分、一度仲良くなったら簡単なことでは壊れない
見えない結束のようなものが出来た気もする。
20年の間に、気仙沼にも関東にも関西からも新しく仲間も加わった。
桶川や群馬の家にみんなで遊びに来てくれたり、
福島の山でキャンプししたり、東京や、桜の咲く街、いろんなところで
みんなの結婚披露宴で流すビデオを撮らせてもらった。
そんな映像を作る時は、それぞれの生い立ちや考え方に触れる機会や、
一対一で飲んだり話し合ったりすることもあって、
普段はなかなか会えない僕らに対しても
少しずつ心を開いてくれているような感じがあったりね。
でもやっぱり気仙沼や南三陸、陸前高田の裏山を案内してもらいながら
バイクに乗って遊ぶのは本当に楽しかった。
そして、僕はこの古い港町の雰囲気が大好きだった。
旧市街のダウンタウン気仙沼(って僕は呼んでた)には古くからのモダンな建物がいくつもあって、
バイク遊びに行った帰りにはよく、街の様子や建物を撮っていた。
この建物も大好きだったんだ。
土曜走って夜は大宴会で、日曜には南マグロ丼の贅沢なお昼を食べて、お土産を買って、
倉庫みたいな建物を改装して作ったカフェでみんなでコーヒーとドーナツを楽しんだり、
この素敵なお店も
シャークミュージアムも
海側の広野輪業も
みんななくなっちゃった。
今は僕が見た瓦礫の街の写真を載せるような気分じゃないんだ。
本当にあの震災が悪い夢だったらいいって、今でもどこかで思ってる。
帰りの街では、シブい看板を眺めたり。
4月の終わりには公園でお花見もした。
気仙沼ホルモンや魚を焼きながらの楽しいお花見には、
僕も東京から何回か参加させてもらった。
震災が起きる前の気仙沼では、なぜか空前の記念写真ブームで
こんな記念写真をみんなで何枚も撮った。
いつも別れる時にはお互いの目を見つめ合いながら
ベタベタと抱き合う気持ち悪い男達。
でもそれがすごく自然で当たり前だと思っていたんだ。
地震と津波が起きた時、僕はどうにもならない無力感にただ打ちのめされていた。
リアルタイムでテレビ画面から波に飲まれる自動車を見て、
大好きな気仙沼や東北の街が炎に包まれている間、
僕が出来る事はただ祈る事だけだった。
現地どうしではメールもままならない中、
東京経由でメールを中継しながらお互いの無事を伝え合った。
物資を集めてすぐにでも現地に向かおうとした僕を、
震災の経験がある神戸の河田さんが引き止めた。
「今は道路も開通していないし、個々で動けば大型トラックや自衛隊の通行を阻害することになる。行きたい気持ちはわかるが、せめて高速が開通してからにしたらどうか。」
彼の言葉に従った僕は、高速が開通してからすぐ、野菜や牛乳、衣類や靴、リクエストに応じてヘルメットや合羽、長靴やなど、震災の物不足の中、大勢の友達がコネクションを総動員して集めてくれた物資を満載して、自分達の食料やガソリンも全て自分で賄えるようにドラム缶にガソリンを満タンにして現地に向かった。
現地で自分がやったことはここでは割愛するが、
僕が行った気仙沼はあの懐かしい街とはまるで違ったものになっていた。
友達の家やバイク、よく行ったお店も思い出の公園も、
なにもかもが波に流され、破壊されていたし、
彼らから聞く生還の物語は
心臓を冷たい手でつかまれるような思いの連続だった。
それでも
仲間達はみんな生きていた。
僕は誰かに会う度に
いつものようにベタベタ抱き合って
今度はうれし涙を流した。
原発のこと、放射性物質のこと、また起きるかも知れない地震や津波の事、
遅々として進まない復興。
どうしようもない現実は本当にわかってるんだ。
でもいつか、昔みたいに手放しで遊べたらいいなあ。
がんばろう!なんて言葉自体が薄っぺらくなっちゃって
うまく言えないんだけど、
これからも元気でいてください。
そしてまた時々会おう!
今日はそういう思いです。
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