Thursday, June 19, 2014

一切れのパン

一切れのパン

第二次世界大戦中、「私」の祖国ルーマニアはドイツと同盟を結んでいた。
隣国のハンガリーもドイツの同盟国であったが、「私」は、その首都ブダベストの水運会社に勤め、ドナウ川を行き来する艀で働いていた。
ある日、二週間振りに帰港した「私」は、妻の待つ家に帰る暇もなく、突然船中に乗り込んで来た水上警察の手で拘引された。
「私」には、その理由が分からなかった。
警察の一室で、警官と若い中尉から国籍についての簡単な尋問といわれのない侮辱を受け、そのまま地下室の暗闇に投げ込まれた。
そこには、「私」と同じような仲間がいた。
そして、一週間前にルーマニアが、友邦であるドイツと絶縁しソ連側と手を結んだ為に、敵国人として逮捕されたのだと教えられた。
仲間たちは、2日間何も食べ物を与えられていなかった。
それを聞いて「私」も、船の仕事が忙しくて朝食も採っていなかった事を思い出し、飢えが急にひしひしと迫ってくるのを感じた。
翌日の夕方、「私」たちは、食事も与えられず、行き先も知らされないまま、窒息しそうなほど息苦しい貨車に押し込まれて駅を出発した。


私たちの押し込まれた車両は古くて、床板は腐っていた。
一面に散らばった木切れと鋸屑とから、私は直ぐに、木材運搬に使われていた物だと知った。
他の連中がその事に気が付く前に、私は、鋸屑をベッド代わりにする為に、一杯かき集めた。
列車の車輪は、ゴトゴトと物憂い音を立てていた。
ゲオルギッツァの歌(ルーマニアの民謡)を、誰かが歌い始めた。
私の横には、頭をそった背の低い老人が目を半開きにしたままうとうとしていた。
そして、絶えず神経質に手を動かしていたが、その手は異常な程細かった。
私は、彼が何者か見極めようとして長い間見詰めた。
幾度か、老人も私の方を見た。
しかし、私が彼の事を探っているのに気が付くと、その度に顔を背けた。
遂には気になったらしく、私の方に身を屈めて言った。

「あなたはどこから来ましたか」

その言葉のアクセントは、ユダヤ人に特有のものであった。
私は、それに違いないと思ったので彼に聞いた。

「あなたはユダヤ人ですか」

私の隣人はびくっと身を竦め、口に指を当てた。

「しっ、人に聞かれないように。その話はやめて下さい」

それから半時間後には、私は彼についての全てを知った。
彼はシゲト市(ルーマニア北部、ソ連との国境近くにある都市。 当時はハンガリー領)の近くに住んでいるラビ(ユダヤ教の教師の意の尊称)で、ユダヤ人としてではなく、ルーマニア人として逮捕された事をとても喜んでいた。
彼は、どうかその秘密を漏らさないでくれ、と念入りに私に頼んだ。
私は彼にそれを約束した。
翌日、貨車の中での話と言えば、食べ物の事ばかりであった。
誰かが、ティミシュ-トロンタル地方(ルーマニア西部)ではサルマレ(ロールキャベツに似たバルカン地方の料理)をどんな風に作るか説明し始めた。
もう一人は、トランシルバニア地方では料理にかけて彼の女房に及ぶ者は一人もいない事を、躍起になって述べ立てた。
クルージ市(トランシルバニア地方にある都市)の近くの出身で、お役所式の面倒な手続きの為ハンガリー国籍を取るのが間に合わずに逮捕されたハンガリー人の職人は、口汚なく罵りながら床板をはがし始めた。
やはりハンガリー人で気性の激しい男が二人程、彼に手伝った。
そして、数時間後には、丁度車体の車軸の真上で、床板を外すのに成功した。
皆、夜が来るのを首を長くして待った。
ラビは、何人かが脱走した場合、脱走する勇気のない人々に後で災いが及ぶのではないかと心配した。
人々は二派に分かれた。
一方は脱走に賛成し、他方は反対した。
夜中の二時頃、列車は空襲の為、とある荒野の真ん中で停車を余儀なくされた。
職人は、開いた床の口に体を入れた。

「誰か、ぼくと一緒に来るか」

彼に従ったのは三人だけであった。そして、四人は貨車の下に降りた。

「あなたも行きますか」

と、ラビが心配そうに私に聞いた。

「行きます」
「あなたと一緒に行きたいが、連れて行ってくれますか」
「もし行きたければ、どうぞ一緒にいらしゃい」

爆撃は一時間足らず続いた。
.....車両の下に降りた六人は、列車が出発するのを線路の間に寝そべって待っていた。
私たちは、ただ一つの事が気がかりだった。
最後の車両のデッキに多分歩哨が立っていて、私たちに気付き警報を発するのではなかろうか。
ラビは、細いむちのようにぶるぶる震えていた。
私は、彼の近くに這い寄って、貨車に戻るように勧めた。

「あなたはユダヤ人です。もし今度捕まれば、それこそ酷い目に遭うでしょう。仮に、今ここで逃げおおせるとしても、その後どうしますか。あなたにとっては、自由の身でいるより、ルーマニア人として捕虜になってる方が、遙に有利ではありませんか」

ラビは、暫く考え込んでいたが、やがて、私の言う通りだと答えた。
そして、私に別れの握手をすると、貨車に戻った。
私自身、彼に良い忠告を与えたと信じて疑わなかった。

「もし、あなた....」
「なんですか」

と、私は心配になって聞き返した。

「あなたの忠告に対して、お礼をしたいと思って」

そう言いながら、ラビは小さいハンカチの包みを差し出した。

「この中には、パンが一切れ入っています。何かのお役に立つでしょう」

私は感謝しながら包みを受け取ったが、ラビはまだ、車両の開いた口から去ろうとしない。

「まだ何か....」
「あなたに一つだけ忠告しておきましょう。そのパンは直ぐに食べず、できるだけ長く保存するようになさい。パン一切れ持っていると思うと、ずっと我慢強くなるもんです。まだこの先、あなたはどこで食べ物にありつけるか分らないんだから。そして、ハンカチに包んだまま持っていなさい。その方が食べようという誘惑に駆られなくてすむ。私も今まで、そうやって持って来たのです」

汽車は動き出した。私はもう、彼に感謝する暇もなかった。

私は、歩哨に発見されるのではないかという恐怖に駆られて、地面にぴったり顔を伏せた。
が、何事も起こらないまま汽車は遠ざかって行った。
それでもまだ私は、車輪の響きが聞こえなくなってしまうまでは、身を起こさなかった。
どこか近くの爆撃を受けた所で、薔薇色の炎が空に立ち上っていた。

「さて、どっちの方へ行こう」

と、誰かが尋ねた。

「各人、別々の方向だ」

と、職人が言った。

「皆一緒に出掛けるのは意味がない。却って早く見付かるだけだ」

職人ともう一人の男は、線路に沿って歩き始めた。
後の二人は、私たちの左手に広がった林に向かって行った。
私はまだ暫らく決心がつかないまま、枕木の上に腰を下ろしていた。
今となっては、ラビに貨車に留まるように勧めた事が後悔された。
もし彼が来ていれば、少なくとも一人きりにならなくて済んだのだが。
遠くの方からは、立ち去った仲間たちの足音がまだ聞こえていた。
それから不気味な沈黙が訪れた。
私は恐怖に襲われた。
躊躇い気味の足取りで、嫌々ながら爆撃された町の方へ向かって歩き出した。
ふと、後戻りして、林の方へ向かった仲間たちの後を追っ掛けようかという考えが浮かんだ。
しかし、林の方角は暗闇に包まれ、もう彼らを見付ける事は不可能だった。
私は激しい飢えを感じた。
喉は渇いて、頭はずきずき痛んだ。
目を閉じると、瞼の裏に色とりどりの小さな玉が躍り狂い、それはシャボン玉のように膨らんだり縮んだりした。
私は、ラビからもらったパンを思い出し、ポケットの中の包みに触ってみた。
パンはかさかさに固くなっていた。
老人はきっと、随分前からこの一切れのパンを保存してきたのだろう。
よしこれを食べようと思った時、ラビの忠告が私の記憶に蘇った。

「そうだ、彼の言う通りだ」

それに、貨車の中で、飢えに悲鳴を上げていなかった唯一の人間は彼だった。
パンを持っていたからに違いない。

「私は彼ほどの意志力もない弱虫なのか」

私は、ハンカチの包みをポケットにしまい込んで、再び重い足取りで歩き始めた。
そして、自分の飢えを癒す為に、最初に見付かる家に入ろうと決心した。
やっと明け方になって、私は爆撃を受けた町の近くに達した。
町の外れの家まであと二百メートルぐらいの所で、私は完全武装した約一個中隊ぐらいの兵士たちがこちらに近付いて来るのを目にした。
私は、危うい所で一塊の草むらの後ろに身を隠した。
まるでわざとのように、兵士たちは草むらの直ぐ側で向きを変えると、国道から原っぱの方へ入って来た。
私の隠れ場から程遠くない所で、指揮官が何か号令をかけた。
兵士たちは演習の準備をした。
まる五時間の間、私は草むらの後ろで震えていた。
姿を見付けられはしないかと思う度に、身を伏せて這いつくばった。
その上、私は飢えに苛まれていた。
一時、思い切って兵士たちの所に行って食べ物を乞う事さえ考えた。
が、この考えを、幸運にも自分で否定した。
やっと十二時近くになって、兵士たちは再び隊列を作って町の方へ帰って行った。
暫く彼らが遠ざかるのを待って、同じ方向へ私も歩み始めた。
ところが、市の関門の近くで、私は帽子に羽根をつけた二人の憲兵が銃を担いで行きつ戻りつしているのを見た。
私は、道端の溝の中に身を伏せた。
そこで、彼らがいなくなるまで待つつもりだった。
しかし、憲兵たちは去る様子は全くなかった。
約二百メートルの間を行ったり来たりして、市に入る者、市から出てくる者全員の身分証明書を調べていた。
私は、水夫の証明書と会社の給料支給簿しか持っていなかった。
数時間後には、私が願っていたように憲兵が去るどころか、その数は更に増えた。
町に入り込む事ができない事は、もう明らかだった。
しかし、立ち去る事もできなかった。
発見されないで姿を消す為には、すっかり日が暮れるまで待たなければならなかった。
私は、職人と一緒の道を取らなかった事を後悔した。
彼は、今頃どこかで真っ白いシーツにくるまって、きっと満腹のあまり身動きもできないでいる事だろう。
線路の方へ再び戻る道は、果てしなく長いように思われた。
真夜中近くになって、私はもう死んだように疲れ果てて、一本の木の下に座り込んだ。
今度こそ、ラビからもらったパンを食べてしまおうと決心した。
しかし、数分間とつおいつ考えた挙げ句、私はそれを翌日まで延ばす事にした。
夜は眠るのだから空腹は感じないで済むだろう、と考えたのだ。
私は横になって、死んだように眠った。
私は再び船の上にいて、倉庫は素晴らしい食べ物で一杯になっている夢を見た。
その後では、どこかの大きなレストランのコック長になって、あらゆる料理の味見をした。
真っ向から日の光を顔に受けて、私は目を覚ました。
腹の中は空っぽで、喉はからからに渇いていた。
けれども私は、ラビの包みを開けずに立ち上がるだけの意志の強さを発揮した。
線路に辿り着くまでは食べまい、と決心した。
私は、ポケットに手を突っ込んで、パン切れを指でさすりながら、ゆっくり歩いて行った。
前の日出発した地点にまた辿り着いた時には、もう正午を過ぎていたと思う。
暫くの間、私は枕木を一つ一つ踏み付けながら早足に歩いたが、疲れてしまったので、今度を焼け付いたレールの上を両手で調子を取りながら歩いて行った。
このまま歩きながら食べようか、それともどこか木陰で休もうかと迷っていた時、鉄道会社の制服を着た男がひょっこり私の視界に現れた。
私は本能的に隠れようとしたが、飢えは、あの男を避けるなと私に囁いた。
その男は、私から五十メートルほど離れた所まで来ると、私に呼びかけた。

「脱走者かい」

私は、肯定の印に頷いた。

「それなら早くここから逃げろ。昨夜ここで、君の仲間らしいのが二人、捕まって銃殺された。一人は赤い縞のワイシャツを着ていたよ」
「あの職人だ。彼らと一緒に行かなくて良かった」

私の足は震え始めた。

「分かった、行くよ」

と、私はやっとの事で声にならない声を出した。

「でも、何か食べ物をくれないか」
「ここには何にも持っていない」

今でも私は、その時すぐに逃げ出さないで粘った事に驚きを感じる。

「ここで君を待っているから、番小屋から何か持ってきてくれ。もういつから食べていないか分らないんだ」
「それが持って来られないんだよ。番小屋には兵隊が二人、泊り込みで見張りをしている。早く逃げろ、酷い目に遭いたくなかったら」

私は、もうなるようになれといった捨て鉢な気になった。

「それじゃせめて、ここはどこなのか教えてくれないか」
「エステルゴム(ハンガリー北部、チェコとの国境に近い都市)の近くだ。しかし、町は避けた方がいい。ドイツ兵で一杯だから。退却しているんだ」

私は、左手の林が広がっている方へ向かった。
悔しさに涙が溢れてきた。
二十歳になったかりなのに、まるでドブネズミのように飢え死にしなければならないのか。
太陽は酷く照り付けた。
まるで、私に腹を立てているかのようだった。
私は汗だくになった。
そして、体から次第に力が抜けて行くのを感じた。
私は座り込んで、もう二度と立ち上がるまいと思ったが、自分自身に皮肉に問い掛けた。

「どうせ死ぬなら、どうして木陰で死なないんだ」

林に着くと、私はラビからもらったパンの包みをポケットから取り出した。
ハンカチ包みを目にした途端、私の胃は引きつり、私は熱病患者のように喘いだ。
もしこのパンを持っていなかったら、と私は考えた。
到底ここまでも辿り着けなかったろう。
飢えに突き動かされて、兵士たちに食べ物を乞いに行ったかも知れない。
そして、あの職人のように銃殺されたかも知れない。
そうならなかったと誰が言えよう。

「いや、このパンを今食べてはならない。今はこのパン切れだけが、まだ俺に力を与えてくれる唯一の物だ。立ち上がって歩き出さなければならない。ここで時間を無駄にしては何の意味もない」

私は再び包みをしまい込んだ。
歩きながらも、そこに確かにあるかどうか、私はポケットの上から押えてみた。
時々、私には、全てが夢にすぎず、間もなく私は艀の上で目を覚ますのではなかろうか、と思われた。
数時間歩き続けた後、私は森の外れに農家を一軒見出した。
数分の後には、この苦難の道も終るものと確信して、私は農家に近付いた。
そして、まさに呼び掛けようとした時、木陰に軍用トラックが数台止っているのに気が付いた。
私は、歯を食いしばって、ポケットのパン切れを押えながら農場から遠ざかった。
夕暮れに、私は広い国道の真ん中に立っていた。
もうどうなってもいいと思っていた。
今となっては万事同じだ。
私はポケットからハンカチ包みを引っ張り出して、食べようと決心した。
もう、私を引き止める力は何もなかった。
そして、ハンカチの結び目を解きに掛かった時、私の後ろで耳に突き刺さるような警笛が聞こえた。
振り返ると、一台の乗用車が向かって来ていた。
私は、慌てて包みをポケットに押し込むと、手を大きく振った。
自動車を止らせようとしたのだ。
すると、自動車は思った通りに私の近くで停車した。
運転台には、ドイツ兵が一人乗っていた。

「いや、これはしまった事をした」

私は、自分の気持ちを落ち着かせながら自動車に近付いた。
自分でも不思議に思えたほど、私はもう恐怖を感じなかった。

「私はブダベストの水運会社の水夫です」

と言いながら、彼に水夫の証明書を示した。

「ブダベストまで行きたいのです」

すると、彼は私に乗れと手で合図した。
運転台の横に腰掛けて、私は暫く飢えを忘れた。
が、間もなく、胃は再び激しく引きつり始めた。
私は必死にそれに耐えた。
私が飢えている事に、兵士が気付いてはならない。
少しでも怪しまれたら万事休すだ。
私は、眠りに落ちないようにと、全身の力を振り絞った。
ブダベストに着いた時には、もう夜が白み始めていた。
私は、市の中心街で降ろしてくれと頼んだ。
運転手は車を止め、私は彼に礼を言って家路に向かった。
通りの真ん中でパンを引っ張り出すのは恥ずかしかった。
何故か分らないが、同じ食べていても、飢えた人間は、そうでない人間より人の目に付き易いような気がする。
ポケットのパン切れを上から押えながら、私は心の中でラビに感謝した。
結局は彼のお陰で私は助かったのだ。
もしこの一切れのパンを持っていなかったら、私はどんな事をしでかしたか知れない....。
家の近くで、私は巡察兵に呼び止められた。
私は一気に血が顔に上って来るのを感じた。
吃らないように、私はしっかり歯を食いしばった。

「身分証明書」

と、体の大きい下士官が私に命令した。
私は水夫の証明書を出して、彼の前に差し出しながら言った。

「マトローズ(ハンガリー語で"水夫")」

下士官は、ドイツ語の証明書をぱらぱらめくってから、他の巡察兵に向かって言った。

「なんだ、こりゃドイツ人じゃないか」

余計な事を彼にしゃべらなかったのは幸いだった。
私は、さっとドイツ式の敬礼をして立ち去った。
やっと家に辿り着いた時、私はもう妻の質問に答える元気もなかった。
長椅子に崩れ落ちるように横になったが、眠れもしない。
料理の匂いが鼻をくすぐる。
私は、あのユダヤ人のラビからもらったパンを思い出して、ポケットからハンカチの包みを引っ張り出し、微笑しながら包みを解いた。

「これが僕を救ったんだよ....」
「まあ、その汚らしいハンカチが?何がその中に入ってるの」
「パン一切れさ」

突然、部屋全体が私と一緒にくるくると回転し始めた。
ハンカチからぽろりと床に落ちた一片の木切れ以外には、もう何にも私の目に入らなかった。

「ありがとう、ラビ」



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